<今日の一枚と一句>[その5(2024.04.05~04.18]
【 裁き事 有や無しとて 春霞 】(さばきごと ありやなしとて はるかすみ) 金沢地方裁判所前の桜は4分咲き・・・。今日の裁判所、いろいろな法的紛争での判決・決定・命令事が執行される場面があったのかどうか・・・。
空には「春の雲」が、冬の冷たい空気と春の暖かい空気のせめぎあいで、様々な雲を観ることが出来ます。
今日は少し風が強かったこともあって、雲同士が次々とぶつかり、ちぎれたり時には合わさったり・・・。
桜の季節にみられる「花曇り」ではないが霞む現象もあって、空いっぱいの青空とはなりませんでした。
ちなみに、加賀藩の直臣は「人持組頭(加賀八家)」「人持組」「平士」「足軽」に大別されていました。
江戸の組成方とは異なりますが、「大岡越前」や「遠山の金さん」・・町奉行としての「名裁き」が映画などで知るところですが、加賀藩で「○○奉行」役は「平士」が担っていました。
そういえば「遠山の金さん」・・「桜吹雪」・・・やっと咲いた桜や今から開花の桜・・・できるだけ長く散らずにいてほしいものですね~~。
《2024.04.05撮影・投稿》
【 侘び寂びや 床の間軸に 姫空木 】(わびさびや とこのまじくに ひめうつぎ) 千仙叟宗室(せんのせんそうしつ)居士邸地跡が金沢市大手町9-5にあります。千利休の孫の子で、四代目となりますが、「宗室」の初代です。
加賀藩の三代藩主利常公と四代藩主光高公が三代将軍家光公を江戸本郷邸に迎えた時の茶道指南役で、以降加賀藩に・・・小松城三の丸で茶道奉行として仕え金沢に二百坪の邸地を賜わることとなる。(この地がその一部となります。)
侘びの茶風はこの後も金沢で息づき、「裏千家茶道発祥の地」としての伝統と歴史が今に至るとのこと。なお、「千家」は、「表千家」と「武者小路千家」を合わせ、「三千家」と呼ばれています。
※1「床の間軸」: 床の間に「掛け軸」を掛ける。
※2「姫空木」: 5月頃に白く清々とした花が咲きます。花言葉「古風」「風情」など
今日の一句は、たとえ茶道のなんたるかを知らずとも、自宅の床の間に「掛け軸」と季節の花を飾る・・・このことだけでも「侘び寂び」の気分に少しは浸れる・・かな??。日本人に生まれてよかったな~との気持ち・・詠んでみました。
《2024.04.06撮影・投稿》
【 光琳や 描き屏風絵 宗達の 雷神まなこ 変えてぞ助く】(こうりんや まねきびょうぶえ そうたつの らいじんまなこ かえてぞたすく)
我が家にある香炉(九谷焼の風人雷神絵付)、下の台は「更好棚 玄々斎好写:野点道具の一種=こうこうだな げんげんさいこのみ=携行組立て式)」です。
「風人雷神」と言えば「俵屋宗達」の屏風絵が著名ですが、「尾形光琳」の屏風絵も有名です。これは構図からして完全に「宗達の模写版」となるもの・・・ただし大きく異なる点もいくつかあります。
その一つ、「宗達版の雷神の目」が下界を向いて(いかにも雷を落とそうとする目?)いるが、「光琳版の雷神の目」は、しっかりと「風神」に向いている・・。
(これにより落雷を防ぎ人々を助けることに・・??)
※1「光琳」: 「尾形光琳」 ※2「宗達」: 「俵屋宗達」 ※3「まなこ」: 「目」 4「変えてぞ助く」: 「向きを変えてくれて助かった」の意
ちなみに、今日4月7日は「新型コロナウイルス対策特別措置法」に基づき、「緊急事態宣言」の第一回目が4年前にあった日(2020.04.07)でした。
俵屋宗達が活躍していた17世紀には「風疹」が大流行していたとの記録があることから、光琳の時代に再来しないよう「風」の方向に雷神を向かわせた??
そんな空想・・・春の午後のひと時でした。
(今日は「短歌風」にて失礼しました。)
なお、「俵屋宗達の墓所」は、金沢の「宝円寺」(利家とまつの寺)にありますが、京都の「頂妙寺」にもあると・・・。他のお寺にも・・諸説あります(^^;
《2024.04.07撮影・投稿》
【 夜桜や 月城人の 見目好けり 】(よざくらや つきしろひとの みめよけり)
左の2枚は高田城址公園(上越市)の夜桜です。約四千本の桜・・日本三大夜桜と言われ、ライトアップされた城址周辺は多くの人で賑わいます。右の写真は昼の金沢城石川門周辺の桜・・・まだ夜桜の撮影は出来ていませんが、今日の夜と明日が雨になる予報なので、何とか持ちこたえてほしいものです。
これらの写真は2年前に撮影したものですが、満月に近い月とお堀に映る桜、訪れた人々に柔らかな光が当たり、その表情・・・皆とても綺麗に・・・。
※1「月城人」: 月も城も人も
※2「見目好けり」: とても綺麗、顔かたちが良い人、器量よし
ちなみに、高田城は1614年(慶長19年)築城、1873年(明治6年)に廃城令により廃城後、1993年(平成5年)に三重櫓が再現されました。
初代城主は松平忠輝公(家康公の六男)、石垣を積まず、土塁をめぐらし天守を造らなかった城で、金沢城と同じように寺を集めたエリアがあって今も60余りの寺が残っています。
なお、この築城目的は、加賀藩(前田利常公)に睨みを利かせる役目であったとか・・・。
夜桜見物の時は、綺麗な月夜でしたが、今年は明日が「新月」なので、夜桜期間中の月は・・・・。
「今日の1枚」が3枚になりました~(^^;
《2022.04.11撮影2024.04.08投稿》
【 倉が岳 桜はやして 伏見川 】(くらがだけ さくらはやして ふしみがわ)
金沢市民が登る山は「医王山」か「倉が岳」だと先輩から聞いたことがあり、また、古くから白山に並んで歴史的話題の多い山でもあると・・・。
この「倉が岳」の山頂付近の泉を水源とする「伏見川」の堤防に今年も見事な(護岸)桜を観ることが出来ました。
郷土資料によると明治時代から桜の名所として有名で、川沿いに屋台が並び花見舟も浮かべたと・・。
この桜、護岸工事のため昭和35年に伐採されたが、地元民が昭和62年に復活させ、今年で37年経って、ますます綺麗な桜並木を散策、楽しむことができます。
※1「倉が岳」: 海抜565m(金沢市街から見ることが出来る)
※2「桜はやして」: (「さくら」を)映えるようにする、引き立てる、ほめたたえる、称賛するなど
「倉が岳」は、泉鏡花の作品(「新聞掲載」長編小説)「風流線」にも登場する山ですが、「日本山岳会」創設者のひとり、高頭式(たかとうしょく)氏は、「加賀の鞍ケ岳」と題して、会報「山岳1年1号」(明治39年4月発行)に投稿・掲載される際、鏡花の本作品を読んでから登山されたとか。
(ここでまたまたの空想・・・)「泉」とは「倉ヶ岳の泉」、「鏡」人の姿や物の形を映し見る、「花」、「桜」・・・「泉鏡花」の名前・・・ここから??などと考えてしまいました・・・。
「伏見川堤防」沿いは、観光スポットではない?ことから、「隠れた観桜エリア」となっています。
《2024.04.08撮影・04.09投稿》
【 瀉端に 銭五が夢や 徒桜 】(かたばたに ぜにごがゆめや あだざくら)
金沢市、内灘町、津幡町、かほく市がところどころに入り組んで、行政区境がよくわからない?(私的理解の欠如?)エリア一帯には桜並木が続いていて、今が見頃となっています。(ただし、内灘町内には能登半島地震の影響で道路や建物被害が多くアクセス困難な状況あり(被災された皆様の一日も早い復旧・復興を願っております。)。 サンセットブリッジ(内灘大橋)を望んでの「パチリ!!」です。
「瀉端」(河北郡津幡町=河北潟)の干拓は、加賀藩五代藩主前田綱紀公の命を受け、江戸時代の豪商「銭屋五兵衛」により、巨大な新田開発に取組むが難航、埋立反対派による策略・陰謀(その他諸説あり)もあって無実の罪で投獄、獄中死することになる・・・。
北前船交易や廻船業で得た莫大な利益を他の産業に投資・・・・・描いた夢は徒花のごとく儚くも消えた・・。
なお、石川県内の干拓は先に「邑知潟」「加賀三湖」(既に完成)などと同様に「河北潟」も「国営干拓」事業として昭和60年に完了した。
なんと、綱紀公が着手して以来300年を超える大事業となったが・・・。
※1「銭五」: 銭屋五兵衛(ぜにやごへい=海の豪商、海の百万石とも称された)
※2「徒桜」: 散りやすい桜。儚いもののたとえ。
※3「サンセットブリッジ」: 全長344m「恋人の聖地プロジェクト」で全国有数のラブパワースポットとして選ばれました。
《2024.04.10撮影・投稿》
【 木蓮の 花名間違えて 辛夷飛ぶ 】(もくれんの かなまちがえて こぶしとぶ)
「モクレン=木蓮」と「コブシ=辛夷」は同じ時期に咲く花で、しかもよく似ていて咲き始めは見分けがつかないほど・・・。開花すれば、大振りの「モクレン」は上を向いて咲き、小ぶりの「コブシ」は向きがバラバラなので、なんとか見分けがつきます(^^;
この花、長町中央公民館の塀内に咲いていますが、先日来の降雨で少し傷みが来ていました。ただし、まだまだ蕾も多く着いていますので、ここしばらくは楽しむことが出来そうです。
実は、この「蕾」は「トライコーム」と呼ばれる「細かな毛」で覆われています。(他の植物ににもこのような「毛」が観られます。(トマトやナスなど)もちろん防寒の役目がありますが、芋虫などがこれを齧ると空中に揮発性の物質が拡散して、今度は「芋虫」を捕食する昆虫などがやってくるそうで・・。
なので、「蕾」が芋虫による直接の被害を極力少なくして、開花の手助けをする??
また、「蕾」は全て北を向く(コンパスプランツ)「方向指標植物」とのこと。
木蓮の花が大きいこともあって、何枚も一度に散ると、「バサバサ」と大きな音がするとか・・。
※1「花名」: 花の名前、かめい
※2「辛夷飛ぶ」: 拳飛ぶ、拳が飛ぶ、殴られる、叱られる
ちなみに「長町=ながまち」という町名の由来:加賀藩前田家の直臣「長(ちょう)」氏の屋敷に続く道であったことが由来の一つだと言われています。(後日機会があれば関連投稿したいと考えています。)
「木蓮」:俺の名前を間違えるなよ。失礼な!!
「辛夷」:俺の名前も間違えるなよ~!!(拳でゴン!!)
今日は「川柳風」にて失礼しました。
《2024.04.11撮影・投稿》
【 老い桜 眼下に見ゆる 菱櫓 】(おいざくら がんかにみゆる ひしやぐら)
今日の城内も桜がとても綺麗に・・・。写真手前の老い桜から見れば、菱櫓は威風辺りを払う天守級の建物ではあるものの、平成13年7月に復元された(22、3歳の若僧??)櫓・・。
「パチリ!!」画角の妙技で、こちら桜木の方が高台から櫓を見下ろす風に撮ることが出来ました。
「菱櫓」についてのあれこれは「その4」04.03投稿に関連情報を記載済なので省略しますが、大手門側から城を望む景色はいつまで見ていても飽きない景色、四季を通じて大好きなロケーションです。
とはいえ、500年、1000年を超えてなお緑色鮮やかな松は所々の名所を飾りますが、100年を超える桜木はなかなか・・・近年人間の方が長生きになったのかも…(^^;
ちなみに「見ゆる」=「見る」の未然形、自発・可能・受身の助動詞の「ゆ」を付けた形となります。
また、「ゆ」の「活用」は、「え、え、ゆ、ゆる、ゆれ」となる・・・「未然、連用、終止、連体、仮定、命令」形・・・活用形?・・どこかで習ったはずですが・・・。いつの間にか「仮定」が消えて「己然」なるものが・・さてさて「そろそろ老木圏」・・「五段活用」ならどんな形に・・・・(^^;
《2024.04.12撮影・投稿》
【 三味の音は 花宴の節か 西芸妓 】(しゃみのねは かえんのせつか にしげいぎ)
金沢三茶屋街のひとつ、「にし茶屋街」に沢山の観光客が訪れていました。そんな中、金沢観光ボランティアの会”まいどさん”の清掃活動(創立30周年記念事業の一環「クリーン作戦」)に多くの会員の皆さまが汗を流しておられました。日ごろからのボランティア活動もあって、観光の街金沢を楽しむことが出来るのだと・・・頭が下がるおもいでした。
西茶屋街は、1820年(文政3年)頃に誕生、200年を超える歴史がある中、今なお美しい街並みが受け継がれている観光スポットです。
「西茶屋資料館」横の「検番」には「芸妓=げいぎ」のお稽古場も兼ねていることから、平日、運がよければ、三味線や太鼓、笛などの音色が流れている中、・・静かに街の散策を楽しむことが出来るかも。
※1「花宴の節」: 「お花見」の起源は嵯峨天皇が「京都の神泉苑」で桜の花を観賞された=「花宴の節」と呼ばれる。(812年の頃)それまでは、「梅の花」が春花の代名詞だったと言われています。
※2「西芸妓」: 「西茶屋のお座敷に呼ばれた”げいぎ”」
《2024.04.13撮影・投稿》
【 桃色香 迷彩枝の 花梨かな 】(ももいろか めいさいえだの かりんかな)
花梨(カリン)の花が咲きました。朝は蕾も昼には精華、日が当たらなくなる夕方に窄みます。
晴天に恵まれた金沢の朝、「長町武家屋敷跡の休憩館」内庭辺りにかすかな香り・・・柘榴(ザクロ)も山法師(ヤマボウシ)もまだまだ蕾にもならない芽吹きも半ばの様子・・・。まさかまさか・・普段は幹枝が迷彩色のような色合いで目立たない樹肌の木の辺りから漂ってきてます・・・。
「パチリ!パチリ!!」の中、訪日観光客の方から「これは桜か?」と尋ねられました~(^^;
子を思う仕草(親は目立たずして子を愛でて・・・)のようなそんな気持ちにさせられた花梨と今日の出会いでした・・・。
早速「シマシマのTシャツ」を着た「ミツバチ」さん達が訪ねてきての「モーニングタイム」、満足げに飛び立っていきました~🎵♪(^^♪
ちなみに、「花梨」はバラ科の落葉高木、漢方でも用いられる果樹で、「花梨酒」や「のど飴」として加工販売品に標記、目にすることもありますね。
なお、花言葉は「唯一の恋」「豊麗」・・・なんとなく・・・わかりますよ・・・ね??。
《2024.04.14撮影・投稿》
【 多羅葉に 風の所為かな 猪目形 】(たらように かぜのしょいかな いのめがた)
多羅葉の裏に傷をつけるとその跡が黒く残ります。別名「ハガキの木=葉書の木」、文字を書くとやがて茶色っぽく浮かび上がって・・・。戦国時代には「ジカキシバ」とも言われ、通信手段のひとつとして用いられたとも。 春の風が強く吹いて、隣り合う樹木や草花の枝やトゲと擦りあって、時には絵模様や幾何学模様など複雑な形状を発見することがあります。
※1「多羅葉」: もちのき科モチノキ属、経文を書いたヤシ科の「多羅樹(たらじゅ)」に例えて命名された
※2「所為」: しわざ、(そうなった)原因・理由、せい、振る舞いなどの意
※3「季語」: 「多羅葉」(4月中旬~5月中旬頃に開花)
「ハート型」は当時「猪目型=イノシシの目の形」と称された形(本来はスペードのように上が尖って下方がMの逆の形?みたいですが、春風の悪戯なのか、文字とまではいかなくとも、見ようによっては「ダイヤ、スペード・・・」等々の形にも見えてきます。
芽吹きの春、いつもより少しだけ近づき、見つめてみると新たな発見があるかも知れませんね。
ちなみに、この多羅葉に住所など宛先を明記して「定型外の郵便料金」を貼って郵送することも可能だとか・・。平成9年当時の「郵政省」において「郵便局の木」(シンボルツリー)として定められました。
※撮影場所:「武家屋敷休憩館」(金沢市長町)内、南西角に植木栽培されている。
《2024.04.14撮影・04.15投稿》
【 加賀さまも 稀代の春や 越の道 】(かがさまも きたいのはるや こしのみち) この時期、富山県朝日町では、「春の四重奏」と称される景色(北アルプスの白、桜、菜の花、チューリップの広大なコントラスト)が話題となります。
江戸時代参勤交代(190回超え)の行列、この場所を通った際には暫し見惚れたはず・・・。しかし、現代とは異なり、チューリップはまだありませんでした。したがって、「春の三重奏?」は目にされたのかも知れませんが、現代に生まれてきて、この風景が観れるのは、至上の喜び・・・ありがたいですね。
※1「稀代」: 世にも希なること、めったに見られないこと、また、そのさま
※2「越の道」: 北陸道(北國街道)の古称、越の国(新潟)への道
※3「チューリップ」: 江戸時代末期(1863年)に遣欧使節団がフランスから持ち帰った球根が最初で、幕府の蕃書調書(ばんしょしらべしょ=洋学所)で栽培、人目に触れることはなかった。
※4「一番手前の山=イブリ山(1791m)」「その背後の山=前朝日岳(2210m)」
「左の高い山=朝日岳(2418m)」「写真では写っていませんが、白馬(2563m)」も一望することが出来ます。
ちなみに、投稿写真ではチューリップの奥の畑に菜の花が少しだけ咲いていましたが、まだ少し早かったのか・・はたまた遅かったのか・・・不明です。
なお、友人が今年ご当地に出かけた時、平日にもかかわらず駐車場の出入りはもとより、持参した昼食をいただくスペース確保にも苦労したとのことです。
《2022.04.12撮影・2024.04.16投稿》
【 狛犬も 喜悦立ちてか 椿餅 】(こまいぬも きえつたちてか つばきもち) 野々市市は「日本住みよさランキング1位」の常連自治体です。「市の花」は椿・・・。(同名のお菓子があるかないかは判りませんが)「椿」を冠に付けた和菓子「椿餅」(椿の葉で挟み道明寺粉を材料としたお菓子)に似た饅頭やお煎餅はありそうですね。(私見)
ここ「布市神社=ぬのいちじんじゃ」の狛犬、逆立ちしていました(^^;
金沢市内の神社の複数社で見かけたことはありましたが・・・。
きっと、お供えの「椿餅」を抱えた氏子の参拝に嬉しくて、小躍りするかのような・・そんな逆立姿、表情にも見えてきて・・・狛犬を「パチリ!」ました。
※1「喜悦立ち」: 嬉しくて飛び跳ねたり逆立ちをする様
※2「椿餅」: 春の季語
ちなみに、金沢城から京都までを「上街道」(越後を通り江戸までを下街道)と呼んでおり、次の宿場「大聖寺」まで(55km)相当の里程があったこともあってか?金沢城を出発してからの「最初の宿駅」だったと・・・。
《2024.04.17撮影・投稿》
【 風光る 喜多家暖簾の 織田木瓜紋】(かぜひかる きたけのれんの おだかもん) 国指定重要文化財「喜多家住宅」(野々市市本町)は、もと福井藩の武士(高崎姓を名乗る)であったが、禄を離れてここに居住、「油、酒の製造販売」を営んでいたが、1891年(明治24年)の野々市大火で一部を残して焼失した。現在の主屋は、金沢市材木町の醬油屋の建物を移築したもので、典型的な加賀の町家形式が今に残る。
昨日21度を超えた野々市市街を「てくてくMAP」を片手に歩きました・・・陽光に汗ばむ中、さわやかな春の風を感じた瞬間、ここ「喜多家」の大きな暖簾(のれん)がキラリと光ったように感じ「パチリ!」ました。
ちなみに、紫の暖簾に描かれた図案は、織田信長公の家紋のひとつ「織田木瓜」(おだもっこう=おだか 等多種の表現あり)に酷似しています。(ひょっとすると同じかも)当日は時間の関係から確かめることはできませんでしたので、後日追加リポートします。
※1「風光る」: 春の季語
※2「織田木瓜紋」: 織田信長公が家紋として用いた7種の内のひとつ)
《2024.04.17撮影/04.18投稿》
4月19日(金)から「その6」に移ります