〈今日の一枚と一句〉「その6(2024.04.19~05.03)

【 奥村家 辰巳流れや お身拭い 】(おくむらけ たつみながれや おみぬぐい)
 写真は「金沢医療センター」のとても長い土塀と横を流れる「”史跡”辰巳用水」です。
  土塀の長さは282m(県下最長)、高さは1.83m、加賀八家の「奥村家」屋敷跡に、明治時代は陸軍病院、昭和20年に「国立金沢病院」平成16年に「金沢医療センター」へと、歴史を刻み、現在は金沢市有形文化財に指定されています。
 
 今日4月19日は京都の清凉寺(嵯峨釈迦堂)において「お身拭い=おみぬぐい)」が行われる日、本尊釈迦如来像を、西芳寺(苔寺)から送られる水を用いて掃拭します。この「お身拭い」は毎年1回行われる行事ですが、「奥村家」の土塀周りは「辰巳用水」が流れているおかげ?で、毎日が「お身拭い」?・・・。

※1「奥村家」: 前田利家、利長、利常3代に仕えた奥村永福を祖とする。「末森城」で1万5千人の佐々軍を相手に、守将として当初300人で城を守り、2500人の前田軍の援軍到着まで耐え抜いた戦いは有名で、後々まで語られる。
 なお、当家は、加賀八家中5番目の石高(1万7千石)武家→士族、華族(男爵)を誇る。
※2「辰巳流れ」: 「史跡:辰巳用水の流れ」
※3「お身拭い」: 春(4月19日もとは3月)の季語

《2024.04.19撮影・投稿》





 

【 石引きぞ 常盤満作 囃し立て 】(いしびきぞ ときわまんさく はやしたて)
金沢市石引町の由来は戸室山から城の石垣を築くための切石を引いた道筋から来ていると。
 現代のような重機のない時代、「修羅=しゅら」というソリに乗せ、大勢で「苧綱=おずな」を引いて運んだとのことだが、修羅の下に丸太を並べて動きやすくしたとしても、重労働極まりないものであったと想像がつくところ・・・。
 屏風絵にみる「石曳き図」では、特に大石を運ぶ際に法螺貝(ホラガイ)や太鼓で囃し立て、引き手を鼓舞する・・その様子はまるで祝祭のようにも見えて・・・。

 写真1枚目は「トキワマンサク=常盤満作」2枚目は「本多の森北電ホール」東側の小径です。(ちょうどこの2枚の写真は、狭い車道を挟んで相向かいに位置します)今が見頃、最盛期かと・・・。小路側の遊歩道もいろんな小鳥の囀りが聴こえてきます。(おすすめ)

 現ホール建造の前は「石川厚生年金会館(建築家:黒川紀章)」、その前は「県営兼六園野球場」江戸時代には本多家の武家屋敷が軒を連ねていた場所、「石曳人足」への励ましにも思えて「パチリ!詠み」しました。
※1「常盤満作」春の季語、日本での自生と赤い(ベニバナトキワマンサク)花は珍しいが、基本色の薄黄色が白にも見えて、お祝いの「紅白」との表現もできるかも・・・。なお、「真っ先に咲く」「まず咲く」「咲けば万作」に・・からの名づけとも。花言葉は「霊感」「おまじない」「私から愛したい」など。
※2「石引」: 「石曳き」に由来する町名
※3「囃し立て」: 盛んにはやすこと。多くの人が声をそろえて褒めたり冷やかしたりするの意。
※4「今日の一枚・・・」が2枚になり失礼しました。(^^;
 ⦅2024.04.19撮影・04.20投稿⦆

【 リラ(紫丁香花=むらさきはしどい)咲きて 学びの園と 符節合ふ 】(りらさきて まなびのそのと ふせつあう)
 金沢に現存する最古の異人館「学校法人北陸学院ウイン館」があります。1888年(明治21年)に建てられ、1983年(昭和58年)に金沢市指定保存建築物に登録され、2011年(平成23年)から「学校法人北陸学院ウイン館」として一般公開(無料)されています。

 通りすがりに見つけた看板の色合いからか?「ワイン館」と読み違えてしまう雰囲気があって、立ち止まり「パシャリ」される観光客もチラホラ・・・。
 この「ウイン」の館名は、当館の設計・監督者「トマス・C・ウイン」(アメリカ人宣教師)名に由来する。

※1「リラ=ライラック」: リラはフランス名、ライラックは英語名、
※2「季語」: 晩春
※3「花言葉」: (花の色により異なりますが)「友情」「思い出」「初恋」「若き青春の喜び」など。
※4「符節合う」: 「割符がぴったり一致する」(リラの花色、花言葉と学びの園(建物の色合い)がとても似合うという意。

 ちなみに、この地は金沢市「飛梅町=とびうめちょう」前田対馬守長種公から始まる1万8千石前田氏の下屋敷(家中町)があったところ。同家の家紋(角の内梅輪)にちなみ明治2年に現在の町名になったとのこと。
 ⦅2024.04.19撮影・04.21投稿⦆
 
 
 
 

【 加賀の殿 義経松が 川向こう 眺むる海や 時化てぞ悲し】(かがのとの よしつねまつが かわむこう ながむるうみや しけ(時化)てぞかなし)
 金沢市大野町に歴代のお殿様が「お船遊び」された場所であるとの立看板が設置されています。また「義経の松(2代目)」の案内板もあって、源義経と弁慶等のお供が東北へ向かう途中、ここで休息され、「一本松」を植えられた・・・。とあります。

  義経の最後は(頼朝に追われて)「東北=岩手県平泉町」で自刃することに・・・。
  義経=ジンギスカン説など判官びいきが作り出した物語・諸説あるところですね。

 加賀藩の「御船手足軽」は、藩船の維持管理をするとともに、別名「押足軽」「御手回り足軽」とも言われ、殿様の騎乗のお世話などを主な役として熟したようです。(大野川に船小屋があり詰所でもあったと)

幕府から「加賀藩謀反の企て」などと噂されたり・・藩存続の危機も何度かあった・・・楽しいはずの船遊びや鷹狩でこの地を訪れた際、当該松を眺めて・・何を思われたのでしょうかね・・・。
※1「加賀の殿」: 加賀藩歴代のお殿様
※2「義経松」: 義経が植えたとされる松、初代は巨木で昭和18年頃まで現存、昭和45年頃から2代目
※3「時化」: しけ=海が荒れて波が高い・・意
※4「川向う」: 大野川・・正確には「大野川分水嶺”みなと橋”付近」を示す
※5「参考まで」: 写真の中央、橋桁上の建物は「石川県庁」です。

今日の一句・・・は、「短歌風」にて失礼しました(^^;

《2024.04.22撮影・投稿》

【 満天星も ふるまい酒も 整いて 後は笑みぞえ 西の茶屋かな  】(どうだんも ふるまいざけも ととのいて あとはえみぞえ にしのちゃやかな)
西茶屋の観光駐車場にドウダンツツジ(満天星=ドウダン=和名表現)の小さな花が沢山咲いています。
その一角に手前を(にらむ?)を向いた宇宙人?(目が大きくて光っているように見える白く可愛い花姿)
 西茶屋近辺のあちこちに「振る舞い酒」のご案内が貼られています。さてさて、「準備万端仕上げを・・・」と言わんばかりの春一色の装い・・初めて訪れた外国人観光客に尋ねられました。「いつもこんなにたくさんの花が咲いているのか?誰が世話をしているのか?誰かに持ち去られることはないのか?????」と・・・。
 今日もたくさんの観光客が金沢を堪能されたようです。

※1「満天星」: 満天星ツツジ(和名=どうだん)
※2「振る舞い酒」: 毎年この時期に行われていて、無料でお酒がふるまわれます。必見です。
※3「あとは笑みぞえ」: 待つのは楽しい人間の笑顔のみ、の意
※4「西の茶屋」: 金沢三茶屋街のひとつ

今日は「短歌風」にて失礼しました。
《2024.04.23撮影・投稿》

【 住み易き 尾山御坊に 付かずとも 京僧詠むや 野々市の盛り 】(すみやすき おやまごぼうに つかずとも きょうそうよむや ののいちのもり)
京都聖護院の僧・道興が北國や東国を廻る旅の途中、矢作(野々市市=矢矯=やはぎ)に宿泊、野々市を通る際、急な雨にあった時、「風をくる 一村雨に虹きえて のの市人は たちもをやまず」と詠んだ。
これは、「虹の出ていた空に風が吹いて、にわか雨が降ってきたにも関わらず、野々市の人は立ち止まりもせずに忙しそうにしている」と・・・当時の野々市の賑わいを伝え、同僧の道中記録「廻国雑記」(かいこくざっき)に収録されている。なお、1486年(文明18年)6月下旬に当地を訪ねたとの記録あり。
 
 「住みやすい街ランキング」で常に上位に位置する「野々市市」、町政時代から金沢市との合併についてのあれこれがありましたが、単独市制の「野々市市」が誕生しました。古くは、金沢の中心が「尾山御坊=金沢御堂」と呼ばれる頃からも大都市金沢に吸収合併されることを拒み、避け、独自の文化を築き上げてきた?歴史もあるようですが・・・・。 人口では、県内5番目の5万7千人を超える市となります。
 この僧が訪れた時代(約538年前)でも賑わいがあったエリアの様ですね。

※1「京僧詠むや」: 京都聖護院の僧・道興(室町時代の関白 近衛房嗣の子)が歌に詠んだ・・の意
※2「野々市の盛り」: 野々市が賑わっている様子
※3 写真の塚は、布市神社境内に置かれている。
今日も「短歌風」にて失礼しました(^^;
《2024.04.24撮影・投稿》
 

【 瓦斯灯や 立って木を見て 山法師 】(がすとうや たってきをみて やまぼうし)
昨年の猛暑で、相当傷みが来て、旧盆過ぎには各葉それぞれ半分くらいまで枯れてしまったヤマボウシの木、でも今年の春先に新芽が出てきましたが、それでも心配していたところでした・・・「大丈夫か~?」と傍に設置のガス燈が見守ってくれているようにもみえたので「パチリ!」ました。

 撮影日時は、西茶屋観光駐車場の小スペース・・・午前9時半過ぎでしたが、ガス燈がまだ点いていました。センサーの不具合か、はたまた・・。
 もう一ケ月もすれば、白い花が元気に沢山咲いてくれるものと思います。

※1「瓦斯灯」: ガス燈
※2「立って木を見て」: 「親」の字を分解すると・・。(親心かも・・・ですね)
※3「山法師」: ハナミズキに似ていますが、山法師は日本原産でハナミズキはアメリカ原産です。
※4「花言葉」: 「友情」、ちなみにアメリカに「桜」を贈った際、返礼に「ハナミズキ」が贈られたそうで、似ている山法師の花言葉としてつけられたとか・・・。(諸説あります)

《2024.04.25撮影・投稿》


 

【 誘いの 白鳥路が 燕子花 】(いざないの はくちょうろうが かきつばた)
「白鳥路」は、金沢城の大手門の堀(大手掘)と石川門(百閒掘)を結ぶ「お堀り」でした。普段から、水鳥を放し飼いにしていて、もし敵が侵入するとそれを察知した水鳥が飛び立つ(センサー役)・・・・。
(これに由来するとか)
 この小径には、明治の三文豪(金沢ゆかりの、室生犀星、徳田秋声、泉鏡花)の彫刻が設置されています。また、夏は「蛍の夕べ?=探索?」なる企画も実行される路ですが、今日、その入口、せせらぎに「燕子花=かきつばた」が綺麗に咲いていて、「白鳥路への誘い?」かなと…もちろん、「ゆっくり散歩」を楽しんできました。
※1「誘いの」: 誘い=誘い、誘われ・・・。
※2「燕子花」: かきつばたの花が燕を連想させることもあってか?「幸せは必ず来る」とか「思慕」等
※3「その他」:「在原業平」の和歌「かきつばた」はあまりにも有名ですね。(伊勢物語、古今集)参考にしてGW中に紐解いてみるのも楽しい”かも”
《2024.04.26撮影・投稿》

 

【 二季草 逸機芭蕉や 源意庵 】(ふたきぐさ いっきばしょうや げんいあん)
写真は「久保市乙剣宮(くぼいちおとつるぎぐう)」は、金沢における市場発祥の地(下新町)として由緒ある神社です。境内から「暗がり坂」に通じる観光スポットでもありますが、鳥居の前に立て看板があり、「芭蕉ゆかりの地=立花北枝宅跡」と書かれています。

 芭蕉翁が金沢に7月中旬(陽暦8月末)に訪れた。場所は、北枝の「源意庵」に招かれて・・・。
 その庵があった場所と言われているのが、この立て看板の辺りで、「泉鏡花生誕の地」としての案内板も設置されているところです。

 芭蕉翁は、北陸の俳人「小杉一笑」に会うことを楽しみにしていたとのことですが、来沢時には既に一笑さんがなくなっており、また、今のこの時期には境内に「二季草=ふたきぐさ=藤の花」が見事に咲いておりますが、これにも間に合わなかった・・・。さぞや残念な思いであったかと・・・。
 
※1「逸機芭蕉や」: 機会を逃した芭蕉翁、チャンスを失った芭蕉翁
※2「二季草」: 藤の花は4月の終わりころ(春)から5月(夏)まで季節(季語)を跨いで咲くため俳句の季語として使われることも多く、芭蕉翁ならさぞたくさんの名句が生まれたことかとも・・・。
※3「源意庵」: “あかあかと 日は難面(つれなく)も あきの風”を披露された句会の場所(曾良随行日記の要点メモ)とも。
※4「立花北枝」: 江戸中期~俳人で小松生まれ、金沢にあった大火で類焼した際、「焼けにけり されども花は 散りすまし」と詠み、芭蕉翁らが称賛したとの逸話がある。

《2024.04.26撮影・04.27投稿》

【 武蔵野や 子雀達が いろはかな 】(むさしのや こすずめたちが いろはかな)
 写真の奥に咲く濃い紫の花木は「濃紫紅葉=ノムラモミジ=濃紫(葉の色から)」です。たぶん(^^;
「ノムラ」は人名ではなく葉の色からの呼び名かと??かってこの木は「武蔵野」と呼ばれていました。

 ひがし茶屋街の緑地公園(公衆トイレ裏)内に咲く花、「ノムラモジジ」か「イロハモミジ」のどちらが正しい名かは判りませんが、今日の青空に映える色・・・手前のツツジがまだまだの感がある中、本当に見事な色合で魅せてくれています。(今が盛りで超お薦め~デス)
 そんな中、沢山の子雀達が、隣のサルスベリの木や松の木に止り、ピーチクパーチク(^^♪・・・。
 ひょっとすると、「雀の学校?」で「イロハ」を教える学び舎なのかな???と・・・「パチリ!」ました。

※1「武蔵野」: ノムラモミジのことで、かつては、ムサシノと呼ばれていました
※2「濃紫紅葉」: 秋には紅葉しなくて、少し見苦しい?葉の色合いになります
※3「イロハモミジ」: ノムラモミジと、イロハモミジ・・・見分けがつきません(^^;


《2024.04.28撮影・投稿》


【 谷空木 研を競いて 浅野橋】(たにうつぎ けんをきそいて あさのはし)
 浅野川の護岸縁にタニウツギの花が綺麗に咲きました。浅野(大)橋は別名「貴婦人橋」とも呼ばれ、その美しさはあちこちで紹介されています・・・。(以前このコーナーでも採り上げました:「その1」2024.02.22参照)

 タニウツギは花色が美しく古来から庭園や公園の作事に用いられてきました。
 ただ、花が燃えるように美しく、時節には辺り一面が火事になったかと思わせるほど群生している場所もあって、(別名)”火事花”と呼ぶ地域もあるとか・・。

 このGW中、浅野川の川べりを散策される方も多く、この風景には「いずれ菖蒲か杜若」のごとく、「美」の競い合い風景が今見頃です。
※1「谷空木」: タニウツギ、別名を紅空木(べにうつぎ)、田植え花とも
※2「研を競いて」: 美しさを張り合っているように見えるさま

《2024.04.28撮影・04.29投稿》




 

【 詰草や 歌姫座して 庭が雨 】(つめくさや うたひめざして にわがあめ)
今日の金沢は、曇り空から時折小雨に変わり、今の時期にしては気温が少し低い・・・そんな中、カップルがしばしの雨宿り?しているところに、(野暮だとは承知の上)「この場所は、歌手の森○千○さんが、ご自身のBlog?facebook?でUPされた写真と投稿記事が掲載されていますよ・・・」とお声掛けしましたところ、早速スマホ検索されて、めっちゃお喜びに(^^;
  (最近この場所で同じ(右)向きで自撮りされる方が増えて・・)
 この場所には小さなお庭が隣接し、季節の花木がその時その時を彩ってくれています。
※1「詰草」: クローバー、 オランダレンゲ、和名「(白)詰草」等、季語(晩春)
※2「森○千○さん」: シンガーソングライター、ご主人は江○洋○さんです。
※3「代表曲」: 「雨」「私がオバさんになっても」等
※4「歌姫」: 女性シンガー、歌手

《2024.04.30撮影・投稿》
 

【 松の芯 刈られて尚や 文化人 】(まつのしん かられてなおや ぶんかびと)
 西茶屋の観光駐車場の一角に「西茶屋街周辺に綴られた文人たちの思いをたどる」と記された看板が掲げられています。
 「室生犀星」「島田清次郎」「中原中也」「松尾芭蕉」・・・西茶屋に所縁の文人達の写真と関連施設などの案内板です。(とても分かりやすい看板です)
 後世に名を遺す・・・・・その人なりの人生は本人のみが知るところですね。

今日の金沢は、季節外れ?の寒い一日でしたが、GWの時期だからか?たくさんの観光客で賑わい、この案内板に目を留めていました。

※1「松の芯」: 松の新芽(蜘蛛のような形で伸びる)
※2「刈られて尚や」:「本木を弱らせないために、伸び過ぎた新芽が刈られる様
※3「文化人」: 前出の文化人と名を遺す人の苦労を思うと・・・。

《2024.05.01撮影・投稿》



 

【 子雀や 躑躅園児が いもり掘り 】(こすずめや つつじえんじが いもりぼり)
玉泉院丸庭園近くの「いもり掘り」付近「お花畠」に咲くツツジが見頃です。
 朝は少し寒さを感じた金沢でしたが、お昼過ぎたころにはすっかり晴れて、春の日差しが眩しく本来の暖かさがもどりました・・・。

 引率する先生?が縄を巧みに動かせて、園児たちは縄跳びに興じていました。
 それを羨ましそうに眺めてか?子雀が珍しくしばらく動じないまま留まっていた・・・のどかな風景を見付けて「パチリ!」ました(^^;

※1「躑躅」: つつじ(山躑躅、霧島)が赤、白、桃色に咲きます。
※2「いもり掘り」: 金沢城の南西を囲む外堀、江戸時代には幅広いところで、40mもあったとか。(今はその一部が復元されています)
※3「花畠」: 今で言うところの「お花畑」ではなく、「いもり掘り」から「城壁」までの間の陸地を「花畠」と呼称したエリアになります。

《2024.05.02撮影・投稿》






【 悠然と 明日は浅野の 鯉流し 】(ゆうぜんと あすはあさのの こいながし)
 金沢の浅野川は、「加賀友禅」の工程で生地に付着したのりや染料を洗い流す川で、昔の風物詩でしたが、昨今では「実演イベント」でもない限りは見ることが出来なくなって久しい・・・。

 明日5月4日(みどりの日)に、浅野川の「梅ノ橋~浅野大橋」までの河川とその周辺で「鯉流し」が行われる。
 「端午の節句」に空になびく「鯉のぼりが」友禅流しのように川に流す仕掛けは全国的にも珍しい・・・。

※1「悠然と」: ゆったりと、悠々とした様、友禅(ゆうぜん)の掛詞に使用
※2「浅野の」: 浅野川
※3「鯉流し」: 先述のエリアで10時~15時に実演されるとのこと(無料)
※4「写真画」: 紙と割箸を材料とした手工細工(ネットで無料DL)印刷糊付け

《2024.04.03撮影・投稿》


5月4日(土)から「その7」にうつります